近代の国際法では、捕虜に対して危害を加えることは戦争犯罪とされるに至ったが、捕虜を虐殺する事件も決して少なくなかった。
第2次世界大戦中の枢軸国側の捕虜虐待は、戦後に連合国によって戦争犯罪として裁かれ、なかには充分な審理を受けられないまま処刑された例も少なくない。それに対して、連合国側の行った捕虜虐待の大半は全く責任を問われないまま終わってしまった(ドイツ人への報復など)。更には、ソ連によるポーランド軍将校の大量虐殺を枢軸国側の捕虜殺害に転嫁した例すら存在した(カティンの森事件)。
第二次世界大戦では、西部戦線におけるマルメディ虐殺事件などが知られている。
捕虜に関する条約
陸戦ノ法規慣例ニ關スル条約(ハーグ陸戦条約):1899年締結、1907年改定。日本は、1911年11月6日批准、1912年1月13日に公布。
俘虜の待遇に関する条約:1929年7月27日締結。
捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約(第3条約)
日本
敵に投降すること
近代的軍隊においては、捕虜になること自体は違法な行為ではないものとされる。もっとも、自ら進んで敵軍に向け逃げ去り捕虜になることは「奔敵」とされ厳罰を受けることが通常である。
例えば、日本陸軍で適用された陸軍刑法(明治41年4月10日法律第46号)では、
第40条 司令官其ノ尽スヘキ所ヲ尽サスシテ敵ニ降リ又ハ要塞ヲ敵ニ委シタルトキハ死刑ニ処ス
第41条 司令官野戦ノ時ニ在リテ隊兵ヲ率イ敵ニ降リタルトキハ其ノ尽スヘキ所ヲ尽シタル場合ト雖六月以下ノ禁錮ニ処ス
第77条 敵ニ奔リタル者ハ死刑又ハ無期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
と定めて、濫りに投降することを制限していた。
日露戦争
近代国家を目指す日本は、日露戦争、第一次世界大戦などで、戦時国際法を遵守して捕虜を厚遇したことが知られている。ただしそれはあくまで欧米に向けたポーズでしか無かったという指摘もある。日清戦争においては清軍兵士が捕虜である自覚が全く無く集団で反抗する事が日常茶飯事であったこと、清軍が日本の捕虜に対し残酷極まりない辱めを与えたことから徐々に厚遇されなくなっていった。こういった経緯から日露戦争においても非白人の捕虜は白人ほどの厚遇を受けられなかった。
第一次世界大戦
(同収容所のみならず同大戦中のドイツ兵捕虜の取扱いについて詳述されている。)
シベリア出兵
この戦いは国家対国家の正式な戦争ではなかった事、日本側の軍人、民間人が虐殺行為を受ける事がしばしばあった事(尼港事件)もあいまって、捕虜の厚遇などは全く見られなくなる。特にボリシェヴィキが組織した赤軍や労働者・農民からなる非正規軍、パルチザンの存在が兵士たちを困惑させ、時には虐殺行為すら生じた。これが日本軍における捕虜の扱いにおいての転換点となった。
第二次世界大戦
日本軍兵士自身の投降については戦陣訓により厳しく戒められるようになった。その原因は敢闘精神の不足と敵への情報の漏洩を恐れた事と言われる。捕虜となれば本人や家族が厳しく糾弾されるため兵士は戦死よりも捕虜になることを恐れ、しばしば自決や玉砕の動機となった。また連合国側の日本人に対する偏見、差別から投降した日本人兵士への虐殺、虐待が後を絶たなかった。この事から日本軍は終戦まで一度も組織的投降を行わず、個人の投降者も稀であった。この事はとても異質であるため海外から見た日本軍のイメージに大きな影響をあたえている。
捕虜とした連合国兵士の扱いについては戦時中から連合国側から不十分と非難されていた。その原因は捕虜への考え方の違いもさることながら日本軍自身の兵站が十分ではなかったことや、劣勢のため捕虜の保護が十分ではなかったことがあげられる。戦後にポツダム宣言により、捕虜を不当に取り扱ったとされた軍人等が連合国の軍事法廷で裁かれ、処刑される者が多かった。代表的な人物として、比島俘虜収容所長(1944年3月-)となった洪思翊中将などがいる。その他、憲兵にも戦犯とされた者が多かった。
太平洋戦争中の日本軍による捕虜虐待事件として、有名なものにバターン死の行進、サンダカン死の行進などがある。 尚、これら問われた罪のほとんどが連合国側の事後法と捏造であった事が判明している[要出典]が連合国側からの謝罪は未だに無い。[要出典]
1945年(昭和20年)9月2日に調印された降伏文書では「下名ハ茲ニ日本帝国政府及日本帝国大本営ニ対シ現ニ日本国ノ支配下ニ在ル一切ノ連合国俘虜及被抑留者ヲ直ニ解放スルコト並ニ其ノ保護、手当、給養及指示セラレタル場所ヘノ即時輸送ノ為ノ措置ヲ執ルコトヲ命ズ」とあり、俘虜の取扱いは日本と連合国との間で重要な事項とされた。そのため、1945年(昭和20年)12月1日に発足した第一復員省にも大臣官房俘虜調査部(初代部長は坪島文雄中将)が置かれた。
第二次世界大戦主要国別捕虜数
ドイツ 9,451,000人
フランス 5,893,000人
イタリア 4,906,000人
イギリス 1,811,000人
ポーランド 780,000人
ユーゴスラビア 682,000人
ベルギー 590,000人
フランス植民地 525,000人
オーストラリア 480,000人
アメリカ合衆国 477,000人
オランダ 289,000人
ソビエト連邦 215,000人
日本 208,000人
オーナー スキャン マカダミ プレリ トリニダード ジャタン ミヤコサ コビット ラトビア ギナー サイプ シャッフル ネイル ガイア コナ最適 ネバダ ナビミュ 猫物語 たてにしき オート セネガ フローズン スーパ 秋のメルヘン ゼルオー ハルツーム はっく ハードル イタリック サクセス シャーク シート ハイオ キッチュ ロール シアーズ アカマ ジルバ サーズ リバー テーマ ディアム クッパ ねこふん ノーモア フェーズ プレイ さかい ファイ ビタミン
第二次世界大戦後
日本国憲法第9条は自衛権を放棄していないという政府見解はあったものの、人道に関する国際条約(いわゆるジュネーヴ4条約)の国内法制については、有事法制研究においても所管省庁が明確でない法令(第3分類)とされており、自衛隊法第76条の規定により防衛出動を命ぜられた自衛隊による捕虜の取扱い等を具体的に定める法制は未制定であった。
この変則的な状態を解消するため、2004年(平成16年)に行われた一連の事態対処関連法制の整備に際して、国際人道法の的確な実施のための法制として、「武力攻撃事態における捕虜等の取扱いに関する法律」(平成16年6月18日法律第117号)(以下「捕虜取扱い法」という。)が制定された。捕虜取扱い法は、その第1条で「この法律は、武力攻撃事態における捕虜等の拘束、抑留その他の取扱いに関し必要な事項を定めることにより、武力攻撃を排除するために必要な自衛隊の行動が円滑かつ効果的に実施されるようにするとともに、武力攻撃事態において捕虜の待遇に関する千九百四十九年八月十二日のジュネーヴ条約(以下「第三条約」という。)その他の捕虜等の取扱いに係る国際人道法の的確な実施を確保することを目的とする。」と謳っている。
その主な内容は、捕虜等の人道的な待遇の確保、捕虜等の生命、身体健康及び名誉に対する侵害又は危難から常に保護すること、その他捕虜等の取扱いに係る国の責務を定めた「総則」、捕虜等の拘束、抑留資格の確認等に関する手続、権限等を規定した「拘束及び抑留資格認定の手続」、「捕虜収容所における抑留及び待遇」、捕虜等の抑留資格認定及び抑留中の懲戒処分に対する不服申立ての審理手続等を規定する「審査請求」、捕虜等の送還等について規定する「抑留の終了」、及び捕虜等の拘束及び抑留業務の目的達成に必要な範囲での自衛官による武器の使用の規定、捕虜等が逃走した場合の再拘束の権限並びにそのために必要な調査等に関する規定を設けた「補則」等からなっている。
また捕虜取扱い法の附則により自衛隊法が改正され、捕虜取扱い法の規定による捕虜等の抑留及び送還その他の事務を行う自衛隊の機関として、(武力攻撃事態に際して)臨時に捕虜収容所を設置することができるようになった(自衛隊法第24条第4項、第29条の2第1項)。 この捕虜収容所の所長は、第三条約の規定を踏まえ幹部自衛官が任じられる(第三条約第39条第1項、自衛隊法第29条の2第2項)。