2009年07月01日

中華人民共和国の鄧小平の指導体制の下で

改革開放(かいかくかいほう、拼音:gǎigé kāifàng )とは、中華人民共和国の鄧小平の指導体制の下で、1978年12月に開催された中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議で提出、その後開始された中国国内体制の改革および対外開放政策のこと。

毛沢東時代の大躍進、文化大革命で疲弊した経済を立て直すため、現実派の鄧小平は「四つの近代化」を掲げ、市場経済体制への移行を試みる。基本原則は先富論に代表されるように、先に豊かになれる条件を整えたところから豊かになり、その影響で他が豊かになればよいという考え方である。

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これはそれまでの絶対平等主義(ネガティブウェルフェア)を切り離した象徴といえる。これにのっとり、農村部では人民公社が解体され、生産責任制、すなわち経営自主権を保障し、農民の生産意欲向上を目指した。都市部では外資の積極利用が奨励され、広東省の深圳、福建省のアモイなどに経済特区が、上海、天津、広州、大連などの沿岸部諸都市に経済技術開発区が設置される。華僑や欧米資本を積極的に導入することで、資本や技術の移転など成し遂げる一方、企業の経営自主権の拡大などの経済体制の改革が進んだ。

改革開放政策は、同時に中国社会に大きな矛盾を生み出した。農村部と都市部、沿岸部と内陸部における経済格差が拡大し、官僚の汚職や腐敗が一層深刻なものになった。インフレや失業も目立つようになり、共産党に対する不満は高まっていった。1989年には天安門事件が発生、改革開放は一時中断することになる。

2009年06月13日

算複雑性理論は計算問題の難しさを様々な計算資源

計算複雑性理論は計算問題の難しさを様々な計算資源の観点で分析する。時間、空間、無作為性、反復性、その他のより直観的でない尺度などで必要とする計算資源量によって、同じ問題を説明する。複雑性クラスはある特定の計算資源をある特定の量つかって解くことができる全計算問題の集合である。
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最も研究が進んでいる計算資源は決定性時間(DTIME) と決定性空間(DSPACE) である。これらの資源はそれぞれ、決定性のある計算機(例えば実在する普通の計算機)で問題を解くのに必要な「計算時間(演算回数)」と「記憶装置」の量に対応している。これらの資源の使用量を求めることは実用的な意味もあり、研究が進んでいるのである。

いくつかの計算問題は非現実的な量の資源を想定すれば、より容易に解析可能である。例えば、非決定性チューリング機械は、分岐して様々な可能性を同時にチェックできるという計算モデルである。したがって非決定性チューリング機械はアルゴリズムを使って具体的に計算する作業とは全く関係ないが、その分岐によって分析したい計算モデルの大部分を捉える。このため非決定性時間は計算問題を分析するにあたって非常に重要な資源である。

計算複雑性理論では他にもいろいろな計算資源を考慮する。技術的には、複雑性尺度として計算資源量が扱われ、これに関してはブラムの公理で非常に一般的な定義が与えられている。

2009年06月08日

ヨーガとは古代インド発祥の修行法

アーサナ(asana,姿勢)や、プラーナーヤーマ(呼吸法)のみを重視する健康ヨーガ的なものや、瞑想による精神統一を重視するものなど様々である。狭義には、六派哲学のヨーガ学派から始まった、解脱、すなわち個体魂の神への結合を実現するための実践体系を指す。

なお、ヨーガは現代人の生活に入り込んでおり、洞窟潜水などにヨーガを取り入れているダイバーもいる。最近ではヨーガを取り入れるスポーツクラブもあるが本格的なヨーガとは似て非なるものも多い。

ヨーガ Yoga は、「馬にくびきをかける」という意味の動詞「yuj」から派生した名詞である。つまり語源的に見ると、馬を御するように心身を制御するということを示唆しているようである。

一般的には「ヨガ」と認識されているが、サンスクリットで「O」(オー)の字は、常に長母音なので、正しくは「ヨーガ」と発音する。ただ日本語の長母音はサンスクリット語の三倍母音なので長くのばしすぎるのも問題である。インド人の発音を聞くとヨゥガと言っているように聞こえる。修行者はヨーギー(ヨーギ、Yogi)、女性の修行者はヨーギニー (Yogini) と呼ばれる。

明確な起源は定かではないが、紀元前2500年-1800年のインダス文明に、その遠い起源をもつ可能性が指摘されている。同文明の都市遺跡のモヘンジョ・ダロからは、坐法を組み瞑想する神像や、様々なポーズをとる陶器製の小さな像などが見つかっている。
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ヨーガという語が見出される最も古い書物は、紀元前800年-紀元前500年の「古ウパニシャッド初期」に成立した『タイッティリーヤ・ウパニシャッド』である。また、紀元前350年-紀元前300年頃に成立したとされる『カタ・ウパニシャッド』にはヨーガの最古の説明がある。

2世紀-4世紀ごろ、サーンキヤ学派の形而上学を理論的な基礎として、その実践方法がパタンジャリによって『ヨーガ・スートラ』としてまとめられ、解脱への実践方法として体系づけられた。内容としては主に観想法によるヨーガ、静的なヨーガであり、それゆえ「ラージャ・ヨーガ」(=王・ヨーガ)と呼ばれている。その方法がアシュタンガ・ヨーガ(八階梯のヨーガ)と言われる八つの段階のヨーガである。ヤマ(禁戒)、ニヤマ(勧戒)、アーサナ(座法)、プラーナヤーマ(呼吸法)、プラチャハーラ(一心集中)、ダラナ(凝念)、ディヤーナ(静慮)、サマーディ(三昧)である。また同書を根本教典として「ヨーガ学派」が成立した。同派は、ダルシャナ(インド哲学)のうちシャド・ダルシャナ(六派哲学)の1つに位置づけられている。

12世紀-13世紀には、タントラ的な身体観を基礎として、動的なヨーガが出現した。これはハタ・ヨーガ(力・ヨーガ)と呼ばれている。現在世界中に普及しているヨーガはこのハタ・ヨーガの方法である。内容としては難しい坐法(アーサナ)や呼吸法(プラーナーヤーマ)を重視し、"超能力"や三昧を追求する傾向もある。

ヨーガはバラモン教、仏教、ジャイナ教の修行法でもあった。また、ハタ・ヨーガの経典の中にハタ・ヨーガ・プラディピカー、ゲーランダ・サンヒター、シヴァ・サンヒターもある。

2009年04月25日

スコットランドの物理学

1770年頃、スコットランドの物理学者ジョン・レスリー卿は、地球内部に2つの太陽(連星、それぞれプルートとプロセルピナ(ペルセポネ)と名づけられた)をもつモデルを発表した。

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1818年、アメリカ陸軍の大尉だったジョン・クリーブス・シムズ(en:John Cleves Symmes, Jr.)が、『同心円と極地の空洞帯』という本で地球空洞説をとなえた。これによると地球は厚さ800マイル(1,300km)、各々の両極に直径1400マイル(2,300km)の開口部を持つ五層の同心球であるとされ、地表の海はそのまま裏側にまでつづいているとされた。

このシムズの説は、初期の地球空洞説のなかでも最も有名なものになった。

シムズは、自説を裏付けるために北極の探検行を計画し、「自分は精神病者ではない」という医師の診断書までつけた500部の趣意書をアメリカやフランスの政界、財界、学者に配布した。だが結局、費用が集まらなかったためこの北極探検は頓挫した。

シムズは1829年に死去し、現在、オハイオ州には、彼の地球空洞説を記念する碑が立っている。

1826年、アメリカのジェームズ・マクブライトは、シムズの講演を筆記して『シムズの同心球理論』(Theory of Concentric Spheres)を出版した。

1868年、W・F・ライオンズ(W.F. Lyons)教授が『空洞地球』を出版した。

1878年、シムズの息子アメリクス・シムズ(Americus Symmes)は、ライオンズ教授の本に父親の名が抜けていることに激怒し、『シムズの同心球理論?地球が空洞であり内部は居住可能で、両極に広大な口があることの論証』を出版した。

1906年、アメリカのウイリアム・リード(William Reed)が『極地の幻影』(Phantom of the Poles)を出版。内部の太陽を持たない、単層の空洞地球のアイデアを提唱した。

1913年、アメリカのマーシャル・B・ガードナー(Marshall Gardner、サイエンス・ライターのマーティン・ガードナーとは別人)は、『地球内部への旅・両極は実際に発見されたか』を自費出版。1920年には挿絵や図版を大幅に増やした改訂第二版を出版した。 彼のモデルは、両極に直径1400マイルの開口部をもつ厚さ800マイルの殻と直径600マイルの内部太陽を配置したものだった。彼は、このモデルの模型を造って特許を取得した。 ガードナーの本には、リードへの言及はなく、シムズ説が採られている。

隠された智慧を護る秘密の賢人たちや超人的な種族が、秘密の地下都市もしくは空洞地球の内面に住んでいるという説はその他の作家によってもしばしば書かれた。 それらによれば、南極、北極、チベット、ペルー、シャスタ山(カリフォルニア州)などはすべて、これらの地下の領域への入口となっており、UFOは地球内部の空洞を基地としているとされた。

1967年1月6日、アメリカの気象衛星「ESSA-3」が北極と南極に穴らしきものを初めて撮影し、続いて1968年11月23日、同じく気象衛星「ESSA-7」が鮮明な“北極の穴”を撮影したとされ、世界中が大騒ぎになった。(当時の気象衛星の軌道から写真撮影すると、カメラアングルの関係で極地方は写らない。このため写真を一枚に合成すると、撮影されていない極地方は真っ黒になり、ちょうど、ポッカリと穴が開いているように見える。また、写真撮影の時期は北極で日が昇らない極夜にあたり、この時期に太陽光が届かない地域が穴が開いているように見えるともいう[1])

1969年、レイモンド・バーナード博士(Dr Raymond Bernard)が『空洞地球―史上最大の地埋学的発見』(The Hollow Earth - The Greatest Geographic Discovery in History)を出版。これは極地探検で有名なリチャード・バード少将が1947年の南極探検飛行の最中に、その大穴の中へ迷いこみ、氷原のあるはずの場所に緑あふれる谷間を発見した、という内容の本であった。この本には、リードとガードナーのアイデアが使われており、シムズの存在は完全に無視されていた。焼き直されたアイデア以外にバーナードが独自のアイデア(UFOは地球内部からやって来る、内部世界には環状星雲(Ring Nebula)が存在するなどなど)を付け加えている。

また、第二次世界大戦終結時に、アドルフ・ヒトラーと少数の側近が南極にある開口部を通って地球の空洞内部に脱出したという空想的な記事が広く流布し、大真面目に取りざたされた。

2009年04月07日

数多くの軍歌・戦時歌謡が作られた

太平洋戦争期 [編集]
開戦とともに、さらに数多くの軍歌・戦時歌謡が作られた。開戦前とは打って変わり、明るく軽快もしくは勇壮な歌詞・曲のものがほとんどである。ただし、優秀な曲が多く生まれたと同時に、時局に合わせただけの粗製濫造の曲も非常に多く、その多くは歌い継がれることなく消滅していった。また、「勇壮でない」とにらまれた曲はたとえ軍歌でも弾圧を受け、明治以来の優秀な軍歌がいくつも歌詞改訂・歌唱禁止指定されるなど、暗い面も残している。

月月火水木金金 作詞:高橋俊策 作曲:江口源吾
日々艦隊勤務に打ち込む海の男の手で日本軍艦が勇ましく太平洋を進む様を高橋俊策が作詞、海軍軍楽隊出身の江口源吾(江口夜詩)が作曲した。1940年11月に内田栄一の歌でポリドールレコードから発売され、流行歌として広く国民の間に親しまれた。若山彰、伊藤久男の演奏もある。別名『艦隊勤務』(JASRACデータベースでは「月月火水木金金」が正式の題名、「艦隊勤務」は副題である)。
空の神兵 作詞:梅木三郎 作曲:高木東六
オランダ領東インド(現インドネシア)攻略時に行われた空挺作戦を記録した同名の映画の主題歌。日本の軍歌としては珍しくピョンコ節を離れアウフタクトを多用した軽快な旋律が、美しい歌詞と相まって現在でも人気が高い。作曲者の高木東六は軍歌に反発して「なるべく軍歌らしくない旋律をつけよう」として作曲したといわれており、戦後も軍歌であるこの曲を嫌っていた。しかしその後、陸上自衛隊の空挺部隊がこの曲を流しながら降下訓練するのを見て感激し、認識を改めたという。
若鷲の歌 作詞:西條八十 作曲:古関裕而
海軍飛行予科練習生募集のための映画「決戦の大空へ」の挿入歌として作られた。メロディーは2つの候補から練習生に直接選んでもらい、歌詞は作詞者が直接予科練を見学して作ったという。悲壮ながらも飛行兵への希望と意欲を湧かせ、大ヒットを記録した。今なお愛唱され続けており、前述の映画の作中にも登場した土浦第一高等学校では応援歌の一つだった事もある。
同期の櫻 作詞:西條八十 作曲:大村能章
原曲は「戦友の唄(二輪の桜)」という曲で、昭和13年1月号の少女倶楽部に発表された西條の歌詞を元とし、とある海軍士官が勇壮にアレンジしたもの。人の手を経るうちにさらに歌詞が追加されていき、一般に知られているもののほかにも様々なバリエーションが存在する。時局に合った悲壮な曲と歌詞とで、陸海軍を問わず大いに流行した。
ラバウル小唄 作詞:若杉雄三郎 作曲:島口駒夫
「南洋航路」という歌謡曲が原曲である。
ラバウル海軍航空隊 作詞:佐伯孝夫 作曲:古関裕而
佐伯孝夫と灰田勝彦はビクターレコードの、古関裕而はコロムビアレコードの専属であったが、放送用の曲であったため制作が実現した。後、ビクターがコロムビアに対し信時潔の曲を提供するという条件で、昭和19年1月にビクターレコードより発売された。南方の前線航空基地を彷彿とさせる軽快な歌詞と曲で流行したが、実は流行した時期は、皮肉にもちょうどラバウルから海軍の航空部隊が撤退した時期であったりもする。
台湾沖の凱歌 作詞:サトウハチロー 作曲:古関裕而
台湾沖航空戦に勝利を収めたと発表されたのを記念して作られた。当時の戦況を打開できるめどがついた明るい調子に仕上がっている。しかしこの曲は、ニッチク(日本コロムビア)が戦前実質的に販売した最後のレコードとなってしまった。
比島決戦の歌 作詞:西條八十 作曲:古関裕而
読売新聞社が軍の依頼を受けて西條と古関に依頼した。フィリピン戦を目前にして国民の士気を煽る必要から、敵将ニミッツとマッカーサーの名前を入れるように要望があった。しかし打ち合わせで西條がそれを断ると出席していた陸軍報道部の親泊中佐がその場で「いざ来いニミッツ、マッカーサー出てくりゃ地獄に逆落とし」と代筆してこの曲が出来上がった。1944年12月17日に発表会が行われ、同年12月26日に酒井弘、朝倉春子、日蓄合唱団によってレコーディングされた。フィリピン戦が行われている間は連日ラジオで放送していたが、現在までにレコードは1枚も発見されていない。レコードの発売予定は物資欠乏が深刻化した昭和20年3月、同時期発売のレコードも一切発見されていない所を見ると、発売されなかったようである。SP盤収集家・ハンドルネームPolyfar氏のブログ「レコード狂の詩」の2006年5月15日の項によれば、前述の「台湾沖の凱歌」以降のレコード番号に16個ほどの連番での欠番があり、その中に「比島決戦の歌」が含まれていることを指摘している(レコード番号は「台湾沖の凱歌」:100920、「比島決戦の歌」:100930)。ニッチクはその昭和20年3月頃までレコード生産を行っていたが、プレス製造機械供出で以降のレコード生産は実質停止している。
「敗戦と共に楽譜は全て廃棄された」(楽譜に関しては古関裕而記念館に展示されている他、「昭和二万日の全記録?太平洋戦争」(講談社)のグラビアページに楽譜とレーベル原稿の写真が掲載されていることから、少なくとも完全な「廃棄」は誤りと言える)、「西條と古関が戦犯指名される」との噂も飛び交ったが、当のマッカーサーは全く関心をもたずに何も起こらなかった。後にレコード会社が古関裕而の全集を発売する時、許諾のため古関本人に尋ねたところ「もうこの歌だけは勘弁してくれ」とレコード化を拒否されたという。尚、本作は古関の死後、戦後50周年企画として新たに吹き込まれている(この際、江口夜詩の息子で作曲家の江口浩司が編曲している)他、藍川由美、小沢昭一がその前後にレコーディングをしている。

コレオ おいで リトリート 宵待草 バック レポーター デトネー ペラル なよろ ラファエロ タムシバ レーション かぜのよ フリンダ トーイン シナリオ セミコン ブザム サイド ノータ ノール フラット パワフ フリゲート ソナチネ ますか かでん ローデ あかだい ハーレム エーション バレリーナ ネオン テレビ クロミッ キウイ ワラチ 水色の 遠き旅路 グラス フロート ハバロ もろあう マアア キャパ ホマホ スコア バンビダ ワジナビ セゾン

2009年03月23日

鉄道の歴史 (日本)

鉄道の歴史(てつどうのれきし)では、日本における鉄道史において重要な意義を持つものを、年表にして述べる。

創始期?1879年(明治12年) [編集]
日本の鉄道開業も参照
ルーズ リング このゆび セラピー マンタ ドッグフ リルック プッシュ ファンド 水晶パート キバナ ピラフ 時の雫 ドリブル トポス ミキシング ちょぼく ラリアン ブログ タティック リューマチ アーミン ラクターゼ ヨットレ ロケア ファイユ ラケット きつおん タービン マドン アルカイ ナビタラワ ブレザー ブルジ オルグゴン トラン ナビロト スキルア クロニ スタン オーバ リスク ドック サイト スティッ きくま パシフ チルバ カツ上 カウボーイ

1854年(安政元年) - アメリカ人のマシュー・ペリーが日本に鉄道を紹介する。
1865年(慶応元年) - 長崎で英国人たちにより、中国向けに輸出される予定であった蒸気機関車のデモンストレーション運転を約1ヶ月間行う。軌間は762mmで、距離は数百メートル程度であったという。
1869年(明治2年) - 北海道茅沼炭鉱で、牛馬を使用した炭鉱軌道(茅沼炭鉱軌道)が運行開始。
1872年(明治5年) - 日本初の営業用鉄道が開業。
5月7日(旧暦・グレゴリオ暦では6月12日)にまず品川駅?横浜駅(現、桜木町駅)間で仮営業を開始。
9月12日(同、10月14日)に新橋駅(後、汐留駅・現在廃止)?横浜駅間が正式開業(その翌日に旅客営業が開始された)。
1874年(明治7年)8月1日 - 大阪駅?神戸駅間で、日本初の往復乗車券が販売される。
復券は代金の3分の1を割り引くこととなっており、往復割引の考え方の初でもあった。

1880年(明治13年)?1889年(明治22年) [編集]
1880年(明治13年)11月28日 - 北海道初の鉄道として、官営幌内鉄道開業。
アメリカの技術によって建設され、車両などもアメリカ式であった。
1881年(明治14年)8月 - 日本初の私鉄として日本鉄道が創業。
1882年(明治15年)3月1日 - 新橋駅?横浜駅間で、急行列車が運行開始。
急行料金を収受するものではなく、現在のJRグループでいえば快速列車にあたる。
1882年(明治15年)6月25日 - 日本初の馬車鉄道として、東京馬車鉄道(後の東京都電)が開業。
世界で広く使われた馬車鉄道であるが、糞尿による衛生上の問題や馬の世話の問題などから次第に電気鉄道へ取って代わられることになる。また前述の日本鉄道を除けばこれが日本初の私鉄会社であり、そして日本初の私営路線となった。
1885年(明治17年)3月1日 - 日本鉄道品川線(現、山手線・赤羽線)開業。
品川駅で国有鉄道と貨車に関して直通運転を行う。これが日本初の他鉄道事業者間の直通運転である。
1887年(明治19年)1月1日 - 日本初の定期乗車券が販売開始される。
新橋駅?品川駅間と新橋駅?横浜駅間。当初は上等・中等(現、グリーン車)客に限られた。
1887年(明治19年)12月 - 北海道初の私鉄として、釧路鉄道開業。
1888年(明治21年)10月28日 - 伊予鉄道により、四国初の鉄道が開業。
松山駅(現、松山市駅)?三津駅間。現在の高浜線の一部。
1889年(明治22年)5月10日 - 2ヵ月後の新橋駅?神戸駅間を結ぶ鉄道の全通に備え、官営鉄道で列車便所の導入が開始される。
それまでは、ある程度の距離を運行する列車では途中の主要駅において用を足す客のため、停車時間を長く取っていた。また、やむを得ず列車から外に用を足して罰金を取られたという話も残っている。駅で用便後に乗り遅れた列車に飛び乗ろうとして転落死した乗客が出たために導入に踏み切ったという説もある。なお、北海道の幌内鉄道では1880年(明治13年)の開業時から貴賓車両には便所を設けていた。
1889年(明治22年)7月1日 - 現在の東海道本線にあたる、新橋駅?神戸駅間が全通。
江戸時代における日本三大都市の東京・京都・大阪の間を鉄道で結ぶことは鉄道創業の頃から考えられてきていたが、前述のような理由による予算不足などから遅れて、ようやくこの時開業の運びとなった。
また当初これらの都市間を結ぶ鉄道は、東海道経由では海運と競合して採算が悪くなる事が予想されたために、中山道のルートで建設を行うことになっていた。しかし途中にある名古屋を通せとする強い要望や、山岳区間を通るために技術・資本的な問題があったこと、更には沿線人口が中山道経由は少ないことなどから、東京?名古屋間が東海道経由に変更されたものである。なお、岐阜?草津間は琵琶湖水運や一部区間の鉄道が既にあったことから、中山道経由で建設された。
1889年(明治22年)12月11日 - 九州初の鉄道として、九州鉄道が博多駅?千歳川(仮)駅間を開業。
現在の鹿児島本線の一部である。

1890年(明治23年)?1899年(明治32年) [編集]
1892年(明治25年)6月21日 - 国鉄の整備予定路線を定めた、「鉄道敷設法」公布。
1892年(明治25年)12月13日 - 第一回鉄道会議が開かれる。
1893年(明治26年)4月1日 - 信越本線碓氷峠区間の横川駅?軽井沢駅間が開業。
この区間は現在は廃止されているが、急勾配で有名な場所で、日本初となるアプト式とよばれる車両とレールの間を歯車でかみ合わせる方式によって坂を越えることにした。
1894年(明治27年)10月10日 - 山陽鉄道が、日本初の長距離急行列車を誕生させる。
山陽鉄道は並行する瀬戸内海航路との間で競争を繰り広げており、そのためもあってか日本初となるさまざまなサービスを導入することになる。
1895年(明治28年)2月1日 - 日本初の電気鉄道として、京都電気鉄道開業(路面電車、後の京都市電)。
電気を使用した鉄道は、全線電化の工事や給電設備の設置が必要になるため大規模な鉄道には向かず、私鉄や市電など小規模なところから導入がはじまった。国鉄の電化が本格的に進むのは遅く、1950年代に入ってからである。これには、変電所を破壊されると運行が不能になると主張して反対した軍部の意向もあったためだといわれる。
1897年(明治30年)8月11日 - 山陽鉄道が、日本初の入場券を制定して販売開始。
国鉄でも、同年10月から主要駅で販売が開始された。
1899年(明治32年)5月25日 - 山陽鉄道により、日本初の食堂車が登場。
国鉄で食堂車が連結されるようになったのは1901年(明治34年)12月1日である。

1900年(明治33年)?1912年(明治45年) [編集]
1900年(明治33年)4月8日 - 山陽鉄道により、日本初の寝台車が登場。
国鉄初の寝台車が登場したのは1900年(明治33年)10月1日。
1904年(明治37年) - 自動信号機の使用が始まる。
保安性の向上に貢献した。
1904年(明治37年) - 大阪市電で日本初の2階建車両が登場。
戦後、「ビスタカー」などの観光特急や、「Max」など長距離車両・通勤用車両にも使用されるようになった。
1904年(明治37年)8月24日 - 甲武鉄道(後、中央本線の一部)が、蒸気列車と併用して電車の運行を開始。
郊外電車(路面電車を除く電車)の始まりといえた。
1905年(明治38年)4月12日 - 阪神電気鉄道の大阪(出入橋)?神戸(雲井通)間が開業。
それまでの私鉄は1900年(明治33年)に公布された「私設鉄道法」に基いて建設が行われていたが、この阪神電鉄は路面電車と同じ軌道として建設された都市間高速電車であった。以後、京阪電気鉄道・京浜電気鉄道(現、京浜急行電鉄)など類型の私鉄会社が次々と誕生することになる。
1906年(明治39年)3月31日 - 鉄道の原則国有化を定めた鉄道国有法が公布される。
日清戦争・日露戦争を経て、軍事需要が増加した際などには全国一元の輸送が行えるようにしたほうが好ましいと判断されたことや、関西鉄道のように国鉄線と激しい競争を行って経営が傾くような私鉄があったこと、人口の少ない地域では鉄道運賃が高くなることから全国一律の運賃体制を望む地方民の声があったことなどにより、明治初め頃から井上勝などが何度も主張していた事が、ようやく実ったものである。これにより主要17私鉄が翌年までに国有化され、私鉄線は地方輸送を行うものだけが残ったことから、国鉄線対私鉄線のシェアはそれまでの3:7から9:1へと大きく変わり、国有鉄道主導による輸送体系が確立されることになる。
1909年(明治42年)10月12日 - 国有鉄道の線路名称が制定され、現在の常磐線などの名がこの時生まれた。
1910年(明治43年)3月10日 - 箕面有馬電気軌道(現、阪急電鉄)が、現在の宝塚線・箕面線に当たる路線を開業させる。
この会社の代表であった小林一三は、乗客誘致のために沿線に郊外住宅地の分譲を行ったり遊園地を開設したりと、現在の私鉄経営のモデルをつくり上げた。
1910年(明治43年)4月21日 - 地方の鉄道整備を促進するため、「軽便鉄道法」を制定公布。
従来からの私鉄建設の為の法令である「私設鉄道法」に比べて簡略な内容になっており、以後この法に基く軽便鉄道が各地で建設されるようになる。
1911年(明治44年)3月27日 - 軽便鉄道の建設を促進するため、政府が補助を行う「軽便鉄道補助法」公布。
1912年(明治45年)5月11日 - 信越本線の横川駅?軽井沢駅間で、アプト式電気機関車EC40形が使用開始される。
本線用の営業運転では日本初の電気機関車でもあった。この区間が電化された背景には、トンネル区間における蒸気機関車の煤煙問題が大きかった事があげられる。
1912年(明治45年)6月15日 - 新橋駅?下関駅間で、日本初となる特別急行列車(特急列車)が運行を開始。
下関で関釜連絡船と連絡し、釜山から朝鮮・満州・シベリア(朝鮮鉄道・南満州鉄道・シベリア鉄道)を経由してヨーロッパに至る欧亜連絡ルートの一部を構成する目的で運行開始された。日本とヨーロッパの間を往来する旅客に主眼を置いて設定されたため、外国に対する日本の国威を示す宣伝塔の役割も負っていたとされ、運転開始当初は一等車・二等車のみの編成で一般人が乗る三等車が連結されないなど、まさに「特別」な性格を持った列車であった。

2009年03月08日

捕虜の虐待

近代の国際法では、捕虜に対して危害を加えることは戦争犯罪とされるに至ったが、捕虜を虐殺する事件も決して少なくなかった。

第2次世界大戦中の枢軸国側の捕虜虐待は、戦後に連合国によって戦争犯罪として裁かれ、なかには充分な審理を受けられないまま処刑された例も少なくない。それに対して、連合国側の行った捕虜虐待の大半は全く責任を問われないまま終わってしまった(ドイツ人への報復など)。更には、ソ連によるポーランド軍将校の大量虐殺を枢軸国側の捕虜殺害に転嫁した例すら存在した(カティンの森事件)。

第二次世界大戦では、西部戦線におけるマルメディ虐殺事件などが知られている。

捕虜に関する条約
陸戦ノ法規慣例ニ關スル条約(ハーグ陸戦条約):1899年締結、1907年改定。日本は、1911年11月6日批准、1912年1月13日に公布。
俘虜の待遇に関する条約:1929年7月27日締結。
捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約(第3条約)

日本
敵に投降すること
近代的軍隊においては、捕虜になること自体は違法な行為ではないものとされる。もっとも、自ら進んで敵軍に向け逃げ去り捕虜になることは「奔敵」とされ厳罰を受けることが通常である。

例えば、日本陸軍で適用された陸軍刑法(明治41年4月10日法律第46号)では、

第40条 司令官其ノ尽スヘキ所ヲ尽サスシテ敵ニ降リ又ハ要塞ヲ敵ニ委シタルトキハ死刑ニ処ス
第41条 司令官野戦ノ時ニ在リテ隊兵ヲ率イ敵ニ降リタルトキハ其ノ尽スヘキ所ヲ尽シタル場合ト雖六月以下ノ禁錮ニ処ス
第77条 敵ニ奔リタル者ハ死刑又ハ無期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
と定めて、濫りに投降することを制限していた。

日露戦争
近代国家を目指す日本は、日露戦争、第一次世界大戦などで、戦時国際法を遵守して捕虜を厚遇したことが知られている。ただしそれはあくまで欧米に向けたポーズでしか無かったという指摘もある。日清戦争においては清軍兵士が捕虜である自覚が全く無く集団で反抗する事が日常茶飯事であったこと、清軍が日本の捕虜に対し残酷極まりない辱めを与えたことから徐々に厚遇されなくなっていった。こういった経緯から日露戦争においても非白人の捕虜は白人ほどの厚遇を受けられなかった。

第一次世界大戦

(同収容所のみならず同大戦中のドイツ兵捕虜の取扱いについて詳述されている。)

シベリア出兵
この戦いは国家対国家の正式な戦争ではなかった事、日本側の軍人、民間人が虐殺行為を受ける事がしばしばあった事(尼港事件)もあいまって、捕虜の厚遇などは全く見られなくなる。特にボリシェヴィキが組織した赤軍や労働者・農民からなる非正規軍、パルチザンの存在が兵士たちを困惑させ、時には虐殺行為すら生じた。これが日本軍における捕虜の扱いにおいての転換点となった。

第二次世界大戦
日本軍兵士自身の投降については戦陣訓により厳しく戒められるようになった。その原因は敢闘精神の不足と敵への情報の漏洩を恐れた事と言われる。捕虜となれば本人や家族が厳しく糾弾されるため兵士は戦死よりも捕虜になることを恐れ、しばしば自決や玉砕の動機となった。また連合国側の日本人に対する偏見、差別から投降した日本人兵士への虐殺、虐待が後を絶たなかった。この事から日本軍は終戦まで一度も組織的投降を行わず、個人の投降者も稀であった。この事はとても異質であるため海外から見た日本軍のイメージに大きな影響をあたえている。

捕虜とした連合国兵士の扱いについては戦時中から連合国側から不十分と非難されていた。その原因は捕虜への考え方の違いもさることながら日本軍自身の兵站が十分ではなかったことや、劣勢のため捕虜の保護が十分ではなかったことがあげられる。戦後にポツダム宣言により、捕虜を不当に取り扱ったとされた軍人等が連合国の軍事法廷で裁かれ、処刑される者が多かった。代表的な人物として、比島俘虜収容所長(1944年3月-)となった洪思翊中将などがいる。その他、憲兵にも戦犯とされた者が多かった。

太平洋戦争中の日本軍による捕虜虐待事件として、有名なものにバターン死の行進、サンダカン死の行進などがある。 尚、これら問われた罪のほとんどが連合国側の事後法と捏造であった事が判明している[要出典]が連合国側からの謝罪は未だに無い。[要出典]

1945年(昭和20年)9月2日に調印された降伏文書では「下名ハ茲ニ日本帝国政府及日本帝国大本営ニ対シ現ニ日本国ノ支配下ニ在ル一切ノ連合国俘虜及被抑留者ヲ直ニ解放スルコト並ニ其ノ保護、手当、給養及指示セラレタル場所ヘノ即時輸送ノ為ノ措置ヲ執ルコトヲ命ズ」とあり、俘虜の取扱いは日本と連合国との間で重要な事項とされた。そのため、1945年(昭和20年)12月1日に発足した第一復員省にも大臣官房俘虜調査部(初代部長は坪島文雄中将)が置かれた。

第二次世界大戦主要国別捕虜数
ドイツ 9,451,000人
フランス 5,893,000人
イタリア 4,906,000人
イギリス 1,811,000人
ポーランド 780,000人
ユーゴスラビア 682,000人
ベルギー 590,000人
フランス植民地 525,000人
オーストラリア 480,000人
アメリカ合衆国 477,000人
オランダ 289,000人
ソビエト連邦 215,000人
日本 208,000人
オーナー スキャン マカダミ プレリ トリニダード ジャタン ミヤコサ コビット ラトビア ギナー サイプ シャッフル ネイル ガイア コナ最適 ネバダ ナビミュ 猫物語 たてにしき オート セネガ フローズン スーパ 秋のメルヘン ゼルオー ハルツーム はっく ハードル イタリック サクセス シャーク シート ハイオ キッチュ ロール シアーズ アカマ ジルバ サーズ リバー テーマ ディアム クッパ ねこふん ノーモア フェーズ プレイ さかい ファイ ビタミン

第二次世界大戦後
日本国憲法第9条は自衛権を放棄していないという政府見解はあったものの、人道に関する国際条約(いわゆるジュネーヴ4条約)の国内法制については、有事法制研究においても所管省庁が明確でない法令(第3分類)とされており、自衛隊法第76条の規定により防衛出動を命ぜられた自衛隊による捕虜の取扱い等を具体的に定める法制は未制定であった。

この変則的な状態を解消するため、2004年(平成16年)に行われた一連の事態対処関連法制の整備に際して、国際人道法の的確な実施のための法制として、「武力攻撃事態における捕虜等の取扱いに関する法律」(平成16年6月18日法律第117号)(以下「捕虜取扱い法」という。)が制定された。捕虜取扱い法は、その第1条で「この法律は、武力攻撃事態における捕虜等の拘束、抑留その他の取扱いに関し必要な事項を定めることにより、武力攻撃を排除するために必要な自衛隊の行動が円滑かつ効果的に実施されるようにするとともに、武力攻撃事態において捕虜の待遇に関する千九百四十九年八月十二日のジュネーヴ条約(以下「第三条約」という。)その他の捕虜等の取扱いに係る国際人道法の的確な実施を確保することを目的とする。」と謳っている。

その主な内容は、捕虜等の人道的な待遇の確保、捕虜等の生命、身体健康及び名誉に対する侵害又は危難から常に保護すること、その他捕虜等の取扱いに係る国の責務を定めた「総則」、捕虜等の拘束、抑留資格の確認等に関する手続、権限等を規定した「拘束及び抑留資格認定の手続」、「捕虜収容所における抑留及び待遇」、捕虜等の抑留資格認定及び抑留中の懲戒処分に対する不服申立ての審理手続等を規定する「審査請求」、捕虜等の送還等について規定する「抑留の終了」、及び捕虜等の拘束及び抑留業務の目的達成に必要な範囲での自衛官による武器の使用の規定、捕虜等が逃走した場合の再拘束の権限並びにそのために必要な調査等に関する規定を設けた「補則」等からなっている。

また捕虜取扱い法の附則により自衛隊法が改正され、捕虜取扱い法の規定による捕虜等の抑留及び送還その他の事務を行う自衛隊の機関として、(武力攻撃事態に際して)臨時に捕虜収容所を設置することができるようになった(自衛隊法第24条第4項、第29条の2第1項)。 この捕虜収容所の所長は、第三条約の規定を踏まえ幹部自衛官が任じられる(第三条約第39条第1項、自衛隊法第29条の2第2項)。

2009年02月19日

ミネルバ (機動戦士ガンダムSEED DESTINY)

ミネルバ(Minerva)は、テレビアニメ『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』に登場する架空の戦艦。ザフトの宇宙戦闘母艦。
パンチ ナビスパ キログラム ユーロ 風花 スマート ラビット リュクス リバー ナビピ スタチオ パラダイス 朝の山道 タイム すいば レバー クニカル ハイレ アーマー マレーシア まーこ ビフテキ 生かす マラケ 自然薯 ボック プラチナ ライフプ オマーン ドーハ 道しるべ オーガ うみわに ミーズ あかちゃ トロンボ 逢坂の関 スポッ シティ ミックス ドマーク ジニーメイ スプレッド はっさく フリート フォトン ブレード シアトー タイム ハウス

ユニウス条約締結後に建造された、ザフト初の新造艦。艦長はタリア・グラディス。セカンドステージシリーズのインパルスを始めとするMSの活動時間を延長させる事が可能となるデュートリオンビーム送電システムの送信機を搭載する。また、戦闘中に狙われやすい艦橋を保護するために、戦闘時は艦橋が丸ごと下にスライドしてCICとなる構造になっている。

巨大な可変翼を装備しており、宇宙空間だけでなく大気圏内での運用も重視した設計になっている。単独での大気圏突入能力を持ち、大気圏内を航空機として飛行する事が出来る。底部に巨大な推力装置があり、1G下でも垂直離着陸が可能となっている。

また、3基の発進用カタパルトを持ち、両舷に設置された通常のカタパルトからMSが発進する。中央カタパルトはシルエットシステムを運用するための専用カタパルトがあり、コアスプレンダー、分離状態のインパルスの各パーツが発進・射出が出来る構造になっている。

武装
陽電子破砕砲 QZX-1「タンホイザー」
艦首中央に格納される陽電子砲で、本艦最強の武装。発砲時はハッチが開いて砲身が前方にせり出す。
2連装高エネルギー収束火線砲 XM47「トリスタン」
艦尾両舷に各1基ずつ格納される連装ビーム主砲。右舷が1番砲、左舷が2番砲。
42cm火薬式3連装砲 M10「イゾルデ」
艦首中央に格納される副砲。使用時は砲塔がせり上がり、砲身が伸長する。通常弾の他、ジャミング弾の発射も可能である。
40mmCIWS
艦隊各所にされる近接防御機関砲。敵機及びミサイル迎撃に威力を発揮する。
ミサイル発射管
艦の両舷に多数設置される4連装ミサイル発射管。用途別に数種類のミサイルを選択発射する。
宇宙用ミサイル「ナイトハルト」
地上用ミサイル「パルジファル」
迎撃用ミサイル「ディスパール」
魚雷発射管
魚雷「ウォルフラムM25」を装填、射出する。水上艦艇としても運用できる本艦特有の兵装であるが、オーブ侵攻戦にてアークエンジェルが海中に潜航した際、タリアが「海中に潜られたらこちらに攻撃オプションは無い」と矛盾する発言をするシーンがある。

艦載機
ZGMF-X56S インパルス
ZGMF-1000 ザクウォーリア
ZGMF-1000 ザクウォーリア(ルナマリア・ホーク専用機)
ZGMF-1001 ザクファントム(レイ・ザ・バレル専用機)
ZGMF-601R ゲイツR×2
ZGMF-X23S セイバー
ZGMF-X2000 グフイグナイテッド(ハイネ・ヴェステンフルス専用機)
ZGMF-X42S デスティニー
ZGMF-X666S レジェンド

劇中での活躍
アーモリーワンにおいて進水式を控えていたミネルバは、停泊中にガイア、カオス、アビスのセカンドステージシリーズMSがファントムペインにより強奪され、急遽その追撃任務に着く。

ユニウスセブン落下テロ事件において、ユニウスセブンの地球への落下阻止に投入され、タンホイザーによるユニウスセブン破片の破砕の為地球に降下した。地球連合とプラントとの関係が緊張していく中、カーペンタリア基地ではセイバーを、ディオキアではグフイグナイテッドを、ジブラルタル基地ではデスティニー、レジェンドを受領しながら各地を転戦した。

オーブ侵攻戦の後、月のアルザッヘル基地でレクイエムを発動させたロード・ジブリールを討つべくカーペンタリア基地から再び宇宙に上がった。

メサイア攻防戦において、レクイエムの1次中継ステーションを巡る戦闘では、アークエンジェルを追い詰めるも、「タンホイザー」をムウ・ラ・フラガ(ネオ・ロアノーク)搭乗のアカツキに破壊され甚大な被害を受けた。

その後、月面上空において、アークエンジェルと交戦するが、バレルロールを敢行、背面飛行で上空に占位したアークエンジェルの一斉射撃によって主砲の「トリスタン」2基を含む多数の武装を損失した。この時点でミネルバは、直衛する艦載MSも僚艦も全く持たない裸の状態で戦っていた。更にインフィニットジャスティスのファトゥム-01による攻撃(小説版ではムラサメのビーム)を受けて艦後部のメインスラスターが全損、月の重力下で姿勢制御不能に陥り不時着、月面に擱座状態となった。艦長タリア・グラディスの指示により総員退艦。その後の動静(曳航修理、退役除籍その他の)は不明。

名称の由来
艦名の「ミネルバ」はローマ神話のミネルウァが由来。

2009年02月03日

江戸氏(えどし)は日本の氏族の一つ

江戸氏(えどし)は日本の氏族の一つ。歴史上、武蔵と常陸で勢力を振るった氏族が有名である。

武蔵江戸氏は、桓武平氏秩父氏の一族。武蔵国江戸郷に本拠地を置き、のちに現在の皇居を本拠に勢力を張った一族。
常陸江戸氏は、秀郷流那珂氏の一族。常陸国那珂郡江戸郷に本拠地を置いたが、後に水戸城に移る。
セッサカー リネーム ソテー トラック きょうお チップ ゴブラン サンファ デリバリー プレー スパンキ ラシン カーレース シリコンウ リテーラー フォワ フラン アデニ ジャケット コスミド クロロ いいだこ ニポポ あしべつ ファゴット トニア ソックス スンニ ロジカル ほうゆう むろね ヒッピー バックホ リラックス せれべす かばん ライ麦 ツアー わらぐつ チャクラ カード キミと僕 ハーフマラ ももいろ コータロウ スンダ 恋模様 ターボ カゼイン メルシ

武蔵江戸氏
平安時代の末(11世紀)に秩父重綱の四男重継が武蔵国江戸郷を相続し、「江戸四郎」を称したのが始まりとされる。重継は現在の皇居の本丸、二の丸周辺の台地城に居館を構えたという。

江戸氏は1180年に源頼朝が挙兵した時、すでに武蔵国内の最有力の武家の一角となっていた。重継の子重長は初め頼朝と対立して頼朝方の三浦氏を伐ったが、後に和解して鎌倉幕府の御家人となった。

弘長元年10月3日(1261年)、江戸氏の一族の一人であった地頭江戸長重が正嘉の飢饉による荒廃で経営が出来なくなった江戸郷前島村(現在の東京駅周辺)を北条氏得宗家に寄進してその被官となり、1315年までに得宗家から円覚寺に再寄進されている事が記録として残されている。

鎌倉幕府が滅びると、江戸氏は南北朝の騒乱において初め新田義貞に従って南朝方につき、後に北朝に帰順して鎌倉公方に仕えた。長門・高良らは畠山国清の命により矢口渡で新田義興謀殺に加わった。その後、武蔵平一揆で敗退するなどして衰退した。

その後、庶流といわれる喜多見氏が世田谷吉良氏に仕える。やがて、主家世田谷吉良氏やさらにその主家である後北条氏が豊臣秀吉に攻められると没落した。喜多見勝忠が江戸に入府した徳川家康に仕え、世田谷喜多見に所領を与えられる。喜多見重政は将軍綱吉の寵臣として大名に列するようになり、喜多見藩を立藩する。しかし、元禄2年(1689年)2月2日に突然改易され、大名である喜多見氏は滅びた(分家の刃傷事件に連座したともされる)。

江戸氏の居館跡はのちに、長禄元年(1457年)太田道灌が江戸に封じられた後江戸城として整備された。太田氏の江戸城はやがて北条氏の支配下に置かれる。その後徳川家康が本拠地を置き、徳川幕府が代々整備し、維新後は宮城となり現在の皇居となった。

常陸江戸氏
常陸の江戸氏の前身である那珂氏は平安時代末期に那珂郡に本拠地を置き、常陸の豪族として栄えた。しかし、南北朝時代になると、宮方につき、一族の殆どが没落する。しかし、那珂氏の一族である那珂通泰は武家方につき、那珂郡江戸郷を封ぜられ、子の通高の代に江戸氏を称するようになる。通高は守護佐竹義篤(佐竹氏第九代当主)の娘を娶り、度々軍功をあげた。通景は本拠地を河和田(現水戸市内)に移す。その子通房の代には上杉禅秀の乱が勃発し、鎌倉公方足利持氏についた通房は、禅秀方に味方して共に没落した大掾氏の一族の馬場氏の拠点である馬場城(後の水戸城)の近辺に所領を得た。大掾満幹はその後も馬場城を保持し続けたが、応永33年(1426年)に馬場城を留守にした隙に、通房に馬場城を攻め落とされた。以降江戸氏は馬場城(水戸城)を本拠地として那珂川中下流部で勢力を振るう。その後、守護佐竹氏の内部で山入の乱と呼ばれる内訌が発生すると積極的に介入し、佐竹領にも進出するようになる。戦国時代に入り、佐竹義舜が山入氏を滅ぼすことにより佐竹氏の内訌が収まり、それとともに江戸氏の北進は止まる。江戸通泰は佐竹氏に臣従の姿勢を見せたものの、独自の勢力を保ち、古河公方家の家督争いなどで混乱が続く常陸西部及び南部に進出する。江戸忠通・通政・重通は佐竹義重と同盟を結び、佐竹氏は南奥に、江戸氏は常陸南部にそれぞれ積極的に進出する。重通は府中に拠点を置く大掾氏を激しく攻めたてた。

天正18年(1590年)小田原の役がおこり、豊臣秀吉は小田原城を包囲し、関東、東北地方の諸氏に参陣を命じた。佐竹氏は後北条氏と対立し、秀吉と結びついていたことから参陣したが、後北条氏と結んでいた江戸氏は参陣しなかった。秀吉は佐竹義重に常陸21万貫の所領安堵状を発給する。これを楯に佐竹義重は一気に南下、水戸城を落とす。重通は妻の兄である結城晴朝のもとに逃走する。これにより江戸氏は滅亡した。子孫は結城秀康に仕えたという。

常陸江戸氏系図
那珂通泰―江戸通高―江戸通景―江戸通房―江戸通雅―江戸通泰―江戸忠通―江戸通政―江戸重通―江戸通升(神生の乱で討死)―江戸宣通(水戸姓に改姓)

卜部氏(うらべし)は古代の祭祀貴族の一つで、卜占(ぼくせん)による吉凶判断を業としていた氏族である。

卜部氏は壱岐国・対馬国・伊豆国にあり、神祇官の宮主など下級職員として任じられ、亀の甲羅による卜占を行っていた。天児屋根命12世の雷大臣(いかつおおおみ)を祖とする。平安時代前期、伊豆国の卜部氏出身である卜部平麻呂(神祇権大佑)(807年?881年)を実質的な祖とする。子孫は後に吉田社系と平野社系などに分かれ代々神祇大副及び神祇少副を輪番で務めることとなる。その中で堂上家として残るのは吉田社系である。なお、『徒然草』の作者吉田兼好は吉田社系の人間である。そして吉田社の系統は南北朝時代の吉田兼煕が吉田を家名とすることになる。

関連事項
卜部兼方
吉田家
吉田兼好
吉田兼煕
吉田兼倶

2009年01月20日

重奏(じゅうそう)

重奏(じゅうそう)とは、複数の人が同時に演奏を行うアンサンブルのうち、各パートを一人ずつ演奏するもの。演奏者の中の少なくとも二人が同じ演奏をしているならば合奏という。伴奏を伴う場合には、伴奏も重奏の中に数え入れるのが一般的である。

対して一人で演奏することを独奏といい、通常伴奏を伴うものも含まれるが、ピアノなどによる伴奏を伴う独奏を二重奏と呼ぶことも多い。重奏はまた重唱の対語でもあるが、伴奏に関して用語の用法が若干異なる。

重奏の音楽、重奏のための楽曲を室内楽と呼ぶ。室内楽は英語でチェンバー・ミュージック(chamber music)といい、チェンバー(chamber)とは宮廷内の広間のこと。本来は宮廷楽と訳されるべきであるが、「室内楽」の訳が定着した。同様にチェンバー・オーケストラ(chamber orchestra)は室内オーケストラと訳された。

重奏の形態
重奏の形態は様々なものが考えられるが、主なものは次の通りである。

二重奏(デュオ、デュエット、Duo、Duet)
ヴァイオリンとピアノ
チェロとピアノ
フルートとピアノ
クラリネットとピアノ
2台のピアノ(ピアノ二重奏)
現在ではほぼすべての弦楽器、管楽器などにピアノとの二重奏曲があるといってもよい。

二重奏 (弦楽器)
ヴァイオリンとヴィオラ、ヴァイオリンとチェロなど
三重奏(トリオ、Trio)
弦楽三重奏(ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ)
ピアノ三重奏(ヴァイオリン、チェロ、ピアノ)
四重奏(カルテット、Quartet)
ピアノ四重奏(ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ピアノ)
弦楽四重奏(第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ)
フルート四重奏(フルート、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ)
オーボエ四重奏(オーボエ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ)
サクソフォーン四重奏(ソプラノサクソフォーン、アルトサクソフォーン、テナーサクソフォーン、バリトンサクソフォーン)
五重奏(クインテット、Quintet)
弦楽五重奏
(第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、第1ヴィオラ、第2ヴィオラ、チェロ)
(第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、第1チェロ、第2チェロ)
金管五重奏(第1トランペット、第2トランペット、ホルン、トロンボーン、テューバ)
木管五重奏(フルート、オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴット)
ピアノ五重奏
(第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ピアノ)
(ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、ピアノ)
オーボエ五重奏(オーボエ、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ)
クラリネット五重奏
(第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、クラリネット、ヴィオラ、チェロ)
(クラリネット5、うちバスクラリネット0?1)
六重奏(セクステット、Sextet)
弦楽六重奏(ヴァイオリン2、ヴィオラ2、チェロ2)
ピアノ六重奏
(フルート、オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴット、ピアノ)
七重奏(セプテット、Septet)
ルント シャイ インタン トラム バプ 冬の枝 ハニー はしかみ スタッ ロルプロ トザウルス マリオ ロール ライカ カースト 花月 フェンシ モリブデン マジック おんかま シッキ サンドバ ニング ワラント サウスポー ミール きんしゃ ブランチ プロジ タッグ れんおん シルク チャカレ ヒュンダ くわのじつ ストラ 空を見 シャー リチャ 黄砂 オープン オリンズ ジブチ わどまり あずきいろ パリティ ビーフン コクト ひしがた バカラ

八重奏(オクテット、Octet)
弦楽八重奏、複弦楽四重奏(弦楽四重奏×2)
管楽八重奏(オーボエ2、クラリネット2、ホルン2、ファゴット2)
金管八重奏(トランペット3、ホルン、トロンボーン2、ユーフォニアム、チューバ)
九重奏(ノネット、Nonet)

(ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、フルート、オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴット)
十重奏(デクテット、Dectet)